25年前の今日。。。

昭和63年10月2日。25年前の今日、歩人は誕生した。

当時、国道から白金温泉まで飲食店は一軒もなく、半径500メートルには農家さんが一軒だけだった。

向かいは牛飼いの方の牧草地で、積み上げられた牛糞から発生した蝿で、オープンの前の日は夜中の2時ごろまで蝿取りをしていた記憶がある。

やっと25年たって、今だから言えるのだが。。。

最初、美瑛に来た理由は、美瑛町で建設する予定のインフォメンション・センターの1階部分で今の歩人のような形態の店をやらせてもらうという話を頂いたため。

63年4月に家族3人で美瑛町の街中の、美瑛町が用意してくれた住宅へ引っ越してきて1月後。

突然、町の担当者から、議会を通らなかったので、この話は無かったことにしてくれと言われた。

言葉も出なかった。

そこから、半年間、死に物狂いで喰らい付き、自力で歩人を立ち上げることとなった。

色々な事があった。色々な人と出会った。

しかし、町の計画の為に札幌から通いづめた1年という月日は無駄では無かった。

沢山の美瑛町の方々に支えられ、歩人はその年の10月2日に誕生した。

当時の歩人は、4人席2つにカウンター3名という極小のレストラン。

テーブルと椅子は買うお金がなかったので、建設資材のはしきれと鉄筋で作った。

建物を建てている最中に、農家の方が「公衆トイレでも出来るの?」と言われたほど小さな建物だった。

それもそのはずで、手元には結婚してから5年の間に夫婦で貯めた400万円しかなかった。

そこに、父から借りた100万円、そして金融公庫から借りた500万円の合わせて一千万。

運転資金として100万円残して、900万円で建物と駐車場整備と、レストラン、工場の機械類を揃えるのだから、建物は小さい物しかできなかったけれど、二階の屋根裏を自宅とし、一階はレストランと工場とした。

建坪16坪の小さな小さな、ハム屋「歩人」の始まりだった。

金融公庫の担当者には、『こんなところにお客さんが来るわけ無いから、業務の注文を取ってこい」と言われ、建物を建てている間中、今まで札幌で作った製品の写真とレシピを持って旭川の食品会社を訪ね歩いた。

見本もないので、どこも相手にしてくれない中、奇特な会社が1件、出来上がったものを食べてみておいしかったら、取引してあげると書類にサインをしてくれて、やっと公庫から借金の内諾を頂いたのは、既に建築が始まってからだった。

建築屋さんは、随分と無理を聞いて赤字をかぶって下さった。

機械を納品する商社の担当者がオープン記念といって、買えなかったショーケースをプレゼントして下さった。

1年間、町の計画の為に一緒に走った役場の職員の方々がマスコミに頼み込んでくれて、建築が始まってから、沢山の取材の方が来られた。

そのおかげで、オープン初日から待ちが出た。

最初は、腐らすのが怖くて多量に仕込む事が出来ず、何時も売り切れだった。

2月後、信じられないくらいのお歳暮の注文を町内の業者の方々から頂いた。

そして年末、十勝岳が噴火して通行止めとなった。

再び、言葉を失った。

しかし、年が明け、旭川のデパートの食品担当者からお声をいだき、破格の条件で販売させて頂くことが出来た。

夜中に製品を作り、出来た製品をリュックに詰め、朝一番のバスで旭川へ向かい、売り切れる夕方に歩人に戻った。

5月、温泉までの道路が開通し、連休は駐車場に入る為の車の列が出来た。

平成3年11月、今の歩人へと増築の建築が始まってすぐ、事故で背骨を破裂骨折、緊急入院、11時間に及ぶ手術、そして半年の入院生活とリハビリを余儀なくされた。

退院した4月、脇の下から腰までのギプスをした状態で工場に立った。

30分働いては30分横になり、なんとか歩人を再開した。

仕事がリハビリだった。

自分の足だけの力で、しゃがんだ状態から立ち上がることが出来るようになるまで、2年がかかった。

たくさんのスタッフに支えられ、仕事を続けることが出来た。

いつも、支え続けてくれた家内のお陰で、此処まで来れた。

25年。四半世紀。毎日の積み重ねだった。

思い起こせば、25年前のこの日、僕と家内は10時に店の看板をオープンにした。。。




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ベトナムと少女

20年ほど前にベトナムを旅した時、ホイヤンという朱印船時代に日本人町があった土地へ向かう途中、美しい浜辺に見せられ休憩したビーチ「ラコン湾」

そこで砂浜に寝そべって潮風を浴びていると一人の少女が片言の英語で声を掛けてきた。

彼女は古い日本の貨幣を差し出し、その価値を聞いてきた。

手に取って見ると確かに大戦前の日本の貨幣である。

リュックの中からベトナムのガイドブックをとりだし歴史をひも解いてみると、嘗てこの浜に日本軍が上陸したことがあるらしい。

この貨幣はその時代に日本兵が残していったものを彼女が拾い集めたのだろう。

更に話し込んでいくと、彼女の年は16歳。父と母はベトナム戦争時代に無くなり弟を抱え、レストランで働きながら暮らしているという。

生活の足しにこの古い貨幣を日本人に売りたいのだが、いくらで売ればいいかと聞きたかったという。僕には古銭を集める趣味は無いし、まして錆びてボロボロになりかけた古銭に大した価値は無いと想ったが、期待に瞳を輝かせる彼女を前にそんなことは言えなかった。

その日の行動に必要でないと思われるお金を彼女に渡しその古銭を買い取ったのだが、どこの国籍でどこに住んでいるのか教えてほしいと、一生懸命に片言の英語で語りかけてくる彼女に手帳を破いて日本の住所を書いて渡した。

それから1年、帰国した僕はそんなことがあったことも忘れていたある日、ベトナムを旅した日本の若者から一通ので紙を受け取った。

その封筒には彼女が僕に書いた手紙が同封されており、切手を買う金のない彼女は、日本人の旅行者である彼に頼み込んで日本に帰ったら届けてほしいと彼に手紙を託したと、彼の手紙が添えられていた。

それから20年、彼女との文通は今も続き、彼女は結婚し二人の子供に恵まれたが、台風で御主人の漁船が流され一文無しになり、ラオスへ出稼ぎに行き、そして今、子供達に囲まれ穏やかな日々を過ごしている。

この写真は、彼女が結婚して最初に生まれた男の子と撮った写真と、今年送られてきた手紙に添えられていた家族との写真である。

出会いとは不思議なものだと思う。今も彼女「ベ・ティ」は僕のことを日本のお兄さんと呼んでくれる。

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O157と牛と野菜

まず最初に断っておきたいのは、これから書き出すことは、私個人の考えで、間違いや思い違いがあるかもしれないということである。この問題に対し多くの方からのご意見を頂き、私が知らないこと、思いちがいをしていること、間違っていること、さらに違った方向からの見方をご教授頂ければ幸いである。冷静にこれからの子供たちのための食について考えてみたいとおもい、ノートに書き出せしてみた。

先月、食品業界を震撼させる事件が北海道で起こった。

みなさんも御存じだと思うが「白菜の浅漬けによる食中毒」である。

原因菌はO157、腸管出血性大腸菌という、大腸菌の中でもベロ毒素を産生する強い病原性のある菌である。

牛の生レバーで多数の死傷者を出した事件も記憶に新しいが、この菌の常在場所として牛の腸があげられる。

今回の浅漬けの場合、どうして牛と白菜?という結びつきにくい図式が不可思議であったのだが、この図式を解明する事件を先日、周囲で目にすることとなった。

近郊の畑に牛の未発酵の糞尿が多量に散布されていたのである。

収穫の終わった畑に、ここしばらく何やら異臭のするものが多量に散布され始めたのだが、これが牛の糞尿なのである。

有機農法全盛の昨今、化学肥料を敬遠して有機農法で育つ野菜を求める方が多くなったせいか、ここ数年増え続けているように思う。

では堆肥というものはいかなるものなのだろうか?

「そもそも堆肥というものは、動物の糞や麦わらや草を堆積し発酵させたもので、実に複雑なプロセスで作られる。

わらと草は牛糞を2メートほどの高さまでどんどん敷き詰めていき、水分が少ない場合はしっとりするまで水をまき湿らせる。すると糞の中の微生物がスターターとなり発酵が進み70度くらいまで温度が上がる第一段階の発酵となる。この熱の為、大腸菌を含め雑菌類が死滅する。ある程度発酵が終了し温度が下がると[切り返し]と呼ばれる、上と下、外と内を入れ替える作業にうつる。そうしてギュウギュウに踏み固め空気を抜き、嫌気性発酵を促す。この工程を数回繰り返すうちに発酵熱は次第に下がっていき、ワラや草の組織も次第に分解され土のようになっていく。そして夏場で半年、気温が下がってからだと1年くらい置いて、さらさらの土状になったものを官ら全堆肥として畑に施肥するのが本来の姿であり、こみの時点での完全堆肥は匂いすらしない」 ---やまけんの出張食い倒れ日記より

では、今盛んに周囲の畑で散布されているものは何なのか???

ただの産業廃棄物なのである。

我々、食品加工業者の中には無添加という多くの消費者の方が飛び付く言葉に頼る製造方法で利益を稼ごうとする輩が今だあちこちにいる。これと同じことが農作物でも有機農法という言葉で無責任に利益を上げようとする生産者がいるということだ。

自然派志向のみなさん!

当たり前に使っている、化学的に生み出されたものを使わないのは本当に安全な事なのか、よく考えて頂きたい。

僕はいつも思う。

当たり前に使われているものを、ひとつ減らすには、10の勉強と100の努力が必要と!

今、危険な農作物が真面目な農家の努力を台無しにして市場で出回ろうとしている。

.

毎週、休みは渓流へ

今年は7月から、休みといえば毎週かならず渓流に入って虹鱒と遊んでいる

釣りが半分、山歩きが半分の楽しい時間


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しかし、この歳になると4時出発は段々と辛くなり、今回は5時半に出掛けた

しかし遅く出たら遅く出たで、気温の上昇にさらされる時間帯の釣りとなり、迫りくる害虫を避けるべくティーシャツの上に長袖と釣り用のベスト。 下は長ズボンの上にウェーダーという、全く風通しの良くない恰好で、汗だくでの釣りとなる。

先週は、夜中の降雨の為、川の水量がふえ2度ばかり頭から深みに没した (-_-;) が、今回は水量が先週の半分ほどで、川上に向かって川の中を歩くのもさして辛くない

水量が少ないうえ気温の上昇で渓流魚の虹鱒には、チト水温が高すぎるせいか食いが浅い

住み込みの大阪君は、前半は坊主     傍目にもやる気をなくしている・・・


まーそれが釣りなんだけれど、先行しながら当たりのあった所を釣り上げずにそのまま大阪君に「ここ居るよ」と譲りながら、釣り進む


途中、カーブを曲がって崖縁から急に視界で開けたところで、5mほど先に鹿君が水を飲んでいた

僕・・「ホッ。。。。熊で無くて良かった 鈴付けてるんだからお前 逃げろよ」
鹿・・「ホッ。。。。猟師で無くて良かった ゆっくり水くらい呑ませろよ」

と言う感じで暫し睨みあい、森の中に消えていった


11時頃、いつもの倍ほどの距離を移動した結果、大阪君は4匹あたりの内2匹をにがして2匹ゲット

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僕は12匹ゲットで5匹リリースで終了

塩焼きサイズにならない小さいのと、たくさん卵を生んでくれそうな大きな奴は、リリース!



今年は、塩焼きサイズの丁度おいしそうなのばかりで涎がとまらない \(◎o◎)/!

僕としては当たり前だと思うのだけれど、集落の飲み会で、泳いでる魚や歩いてる豚、飛んでる雉をみておいしそうという僕はおかしいと言われた (@_@;)


登山道と渓流の接近した入川地まで川筋を下り、そこで虹鱒の内臓とえらを取って、帰ったら直ぐ食えるように処理してクーラーへ


久しぶりの昼間での釣り


帰ったら、冷やしたビールに塩焼きの虹鱒で熟睡だ!!



竹トンボ

先日、お客様から突然、店頭にて竹トンボを頂いた


お父様が、手作りで作られているとおっしゃる、戻ってくるブーメラン竹トンボ



定休日の今日、庭の芝生で思いっきり両手でまわして飛ばしてみた。

黄色い羽根がくるくると回って青空に吸い込まれていった


なぜかワクワク  53歳の少年・・・でした。


素敵なプレゼント、ありがとうございました。
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