ルアンバパンにて

1995年、僕たち家族はラオスのルアンパバンに居た。
社会主義国のラオスは、当時、首都ビエンチャンの国際空港ですら、2階建てのバラックで、ラオスでの旅の始まりは、イミグレーションの有る入国事務所へ直接乗り入れられた、4トン車の荷台に自分達でよじ登り荷物を下ろすことから始まった。

雨期のラオスに陸路での移動手段は無く、ルアンパバンへの空の旅は中国の中古の飛行機で、離陸と共に天井からスチームが噴出し、人の座っていない座席はすべて倒れ、手を伸ばせば届きそうな密林の木々のうえの滑空であった。

ルアンパバンに何があるかといって何もない街なのであるが、この街に4泊した僕達家族は、マーケットをまわったり、川沿いにある少数民族のむらを訪ねたりと、のんびりと過ごしていた。

明日はビエンチャンに戻る日の夜、長女が熱を出したため、早々と食事を終え寝ようとしていたところに、村人が数人、宿を訪ねてきた。

彼らは、日本というアジアの端にあるらしい遠くの国からこの街を訪ねてきた家族がいると聞き、是非歓迎しなければと、村人の有志が集会場に集まっているので来てくれと伝えに来たという。

娘が熱がありチョット無理かと思ったが、微熱だしいつもながらの好奇心が僕たち家族を集会場へ向かわせた。

会館には男女同数くらいで全員で20名ほどのラオの人達。

そこには、バナナの木の皮で作った1メートルくらいの花で飾られたタワーが2つ、四方へ伸びた綿糸で床に固定されてあり、奥には事務机と椅子が4つ置いてある。

どうぞ、その席に座れと言われ腰を下ろすと、地酒とジュース、得体のしれないお菓子類がテープに運ばれ、代表の男性がラオ語でなにやら演説を始めたが、これはさっぱりわからない。

演説が終わるとともに、楽器の演奏が始まり、着飾った女性たちが民族舞踊を踊り始めた。

3度のお色直しまであり、様々な民族衣装に身を包んだ彼女達の踊りに感激して時の経つのも忘れて居たのだが、踊りも終わり、村人たちも床に座りお酒を飲み始めたので、そろそろ宿へ帰ると伝えると長老らしき方が、僕たちをバナナのタワーの方へ手招きし座れという。

言われるがまま、タワーの前に腰を下ろすと両手を出せと言われ、近くの女性達に両手を預けるとタワーを支えていた綿糸をほどいて僕たちの両手首に全員が綿糸で腕輪をくくり始めた。

これは私達があなた達が家に戻るまでの旅の安全を祈願して結んだお守りなので家に帰るまで外してはいけないと長老の通訳に言われ、彼らに見送られながら、両手首に20の綿糸の輪をつけ1メートルのバナナタワーを両脇に抱いた日本人の家族は街灯ひとつない異国の小道を宿へむかった。

僕たち家族の手首に括られた綿糸は帰国して家に着くまで僕達の旅を安全を確かに守ってくれ、今も写真と共に真っ黒に汚れたままでアルバムに張り付けられている。



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ディエゴ・スアレスにて

インド洋に浮かぶ島国、マダガスカルの北端にディエゴ・スアレスという小さな町がある。

目抜き通りは、歩いて10分程度で通り抜けることが出来る小さな町だが、ブラジルのリオに次いで世界で2番目に大きな入江を持ち、フランス植民地時代はインド洋の最重要基地として使われ、今でも船の修理がこの街の大きな産業である。

そのディエゴ・スアレスの市街地から車で40分ほど走るとサカラヴァ湾という、地元民が世界で2番目に美しいと自慢する湾がある。

そこから徒歩で、地元の信仰の対象となっている巨大なバオバブの木を見る為に木立を分け入って行くと、突然土産物を売る少年に出くわした。

即席のテーブルに浜で拾ってきた貝殻と得体のしれない黄色い液体のはいった瓶が並ぶテーブルの下の木陰から少年は僕を見上げた。

あたりには人影もなく40度近い気温の中、少年は何を想って僕を見上げたのだろうか。

いまだにその少年の澄んだ瞳が気になる瞬間がある。



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レストラン「歩人」で調理に時間がかかる訳

観光地である美瑛に店舗を構える歩人のレストランは、シーズン中、沢山のお客様をお迎えいたします。
とてもありがたい事と、社員一同感謝いたしております。

しかし、加工場併設の試食を兼てという理由で営業しております店舗はとても小さく、一度にたくさんのお客様が集中すると、長い時間お待ち頂くこととなってしまいます。

また、ご注文を頂いてからお料理をお出しするまでに、予想以上のお時間を頂くこともあります。

そこで、お客様から頂く苦言で多いのが「温めて盛り付けるだけなのに、どうしてこんなに時間がかかるの?」ということです。


歩人は、食肉加工専門店です。

我々は、我々が考える「おいしい」をお客様に味わって頂きたく、原料を吟味し、製造工程を生化学的に突き詰め、衛生面を微生物の生態から学び直し、食い付きの良い製品ではなく、飽きのこない製品を作ることを深く考え、日々工場に立っております。
そこで一番大事にしていることが、添加物の力を使わず肉の力だけでソーセージの組織を作り上げるということです。

塩に溶ける性質の蛋白質が筋肉には多量に含まれており、肉を塩漬けにすることにより塩溶性タンパク質を肉の組織から外に溶け出させます。

そのタンパク質が60~70℃で、立体的な網目状のゲルを形成することを利用して、ソーセージは弾力のあるジューシーなソーセージ・エマルジョンと呼ばれる組織に生まれ変わります。

ですが、大腸菌を死滅させ衛生的な製品にするため、製品の中心温度を63度以上で30分加熱しなければなりません。

同時に、理想的なソーセージ・エマルジョンを作るため、製品の全ての部分で70℃以上にならないよう加熱します。

そのような条件を踏まえ、ウィンナーのような細い物ですら74℃のたっぷりのお湯で、湯温が70℃前後になるまで45分をかけてボイルしています。

太目のボロニアソーセージは約90分

ロースハムに至っては、3時間前後の時間をかけてゆっくりと加熱しているのです。

肉と塩漬材と香辛料のみを原料とした製品を最高の食感で味わって頂くには、繊細で緩慢な加熱方法を行うことでしか満足できるおいしさをお客様に提供できません。

そうして作った製品を理想的なソーセージ・エマルジョンのままお客様に提供するためには、ファーストフードのような加熱方法はとれないのです。

歩人の製品を熱湯で短時間で加熱すると、工場での製造の苦労がすべて無駄となり、ソーセージの組織の委縮したものとなってしまいます。

参考に40年前に私が学生時代に撮影した電子顕微鏡写真をご覧ください。


上から「70℃」「80℃」「95℃」で30分加熱したアクトミオシンの写真です。

明らかに、温度が上がるに従って組織が委縮していくのが分かって頂けると思います。

この立体構造のゲルがバネのように弾力を生み、その空間に肉汁を閉じ込めるため、おいしいソーセージは出来上がります。


少し説明が専門的になりすぎたかもしれませんが、歩人を訪れてくださる皆様に、本当においしい製品を召し上がって頂くために、我々がしていることが、お客様から苦情として指摘され、キツイお言葉を頂いたときは、心が折れそうになる思いであることを、是非わかって頂きたく書かせて頂きました。

店内には、美瑛の写真集も置いてございます。

美味しいハム・ソーセージ・ベーコンが運ばれてくるのを、ゆっくりと心地よくお待ちいただけるよう、スタッフ一同努力いたしておりますので、よろしくお願いいたします。
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竹鶴さんこと、まっさんを観て思い出したこと

今、NHKでニッカ・ウィスキーの創始者のドラマ「まっさん」をやっている。

毎朝の楽しみで、除雪で見られないときは、録画して夜に見ている

そんなドラマ「まっさん」の中で、今、彼が作ったウィスキーが売れずに会社は在庫の山を抱え、社長であるサントリーの創業者との間で、意見の違いが確執を生もうとしているのだが、僕が食肉加工の会社へ就職して、ドイツでの修行を目指していた時に出会った、当時の会社の生産本部長から言われた言葉が思い出される。

本部長とは僕が就職して工場に赴任して半年後、ドイツから帰国されて出会った。

どういうわけか、かわいがられ色々と目をかけて頂いたりしたのだが、ある日こう言われた。

「岡、お前一生この会社にいる気はないだろう?、どうやって独立までこぎつけるつもりだ」と。

僕は「この会社で技術を身に付けながら、お金を貯めてドイツへ修行にいくつもりです」と答えたのだが、彼は「ドイツになど行く必要はない」と言われた。

言葉の真意を捉えかねていた僕に本部長がおっしゃった言葉が今の歩人の製造理念となっている。

食とは文化なんだ。他国の文化を日本に持ち帰り、我々の食文化にあてはめたところで、所詮は他国の食文化。

輸入の自由化が進めば、ドイツをはじめヨーロッパの食肉加工品が安価で輸入される時代が来る。

いいか、一週間毎日お茶漬け食っててもいいから、1週間に1度でいいから金のことを考えずにうまいものを食え。そして自分の舌を鍛えて、自分のうまいとみんなのうまいを近づけろ。それができたら自分がうまいと思うものをつくれ。そしたら、絶対売れる。今の時代、技術はどこに居ても身に着けることなんかできる。

色々な考えがあり、様々な製品があって当然で、どれを選ばれるかはお客様次第

だが、職人である以上、自分の納得できないものを作り続けるほど辛いことはないけれど、食べてくださる方に喜んで頂けないものなど作る価値はない。

海外渡航者や自称グルメといわれる方々がおいしいというものでなく、ふつうの家庭の食卓で、家族みんなにおいしいね、と言われるハム・ソーセージ・ペーコンを作り続ける職人で僕はいたい。

今の歩人の製品は、すべてオリジナル。

日本はおろか世界中どこにも同じものがないことを強みと感じている。

2016年、初心を忘れず、常識にとらわれず、工夫を凝らし、原料・副原料を吟味し、僕の家族に、歩人のスタッフに、そして全国の歩人のお得意様に笑顔を届けられるよう、改めて襟を正す思いで今朝のドラマを観た。




旅の記憶 トルコ

1997年、トルコでの旅も間もなく終わろうとしていたその朝、家内の悲鳴に近い声で僕は目覚めた。

「拓馬(息子)が顔中赤い斑点が出て熱が39度近くあるの!」

僕たちは、イスタンブールから地中海にそってトルコを西に旅し、港町アンタルヤからバスで内陸のカッパドキアを経て、黒海沿岸ある田舎町「サフランボル」に昨夜着いたばかりであった。

この地「サフランボル」は、現在は街並みが世界遺産となっているが、当時は宿のフロントですら英語が全く通じない田舎町であった。

アンタルヤで子供達が風邪をこじらせ1週間の病院通いとなった為、カッパドキア以外は、その後の旅の予定をキャンセルして、アンタルヤでお世話になった宿主が勧めてくれた静かな町「サフランボル」
で最後はのんびり過ごそうと昨夜やってきたばかり。

フロントで相談してくると、家内を落ち着かせ階下のフラントに飛び込むが、言葉が全く通じない。

手振り身振りで状況を説明しようとするが、全く要領を得ない中、10分ほどフロント前ですったもんだしていただろうか。

騒ぎを聞きつけて集まった宿泊者達の中の一人のトルコ男性が片言の英語で僕に話しかけてきた。

彼の話によると、イスタンブールから100キロほど離れた「イズニック」という大きな工業団地ある街でトヨタ車の販売の仕事をしていて、今日は出張でこの街に来たという。

彼の通訳で街に総合病院があることを知り、まずは病院へ行こうと場所を聞いてもらおうとすると、彼は、自分が車で連れて行ってやると言ってくれた。

厚意に甘え、宿に荷物を残し彼の車で病院へ向かった。

病院は想像以上に大きく、医師に英語でトルコに入国してからの息子の状況を説明すると、多分アンタルヤの個人病院で処方された薬が日本人の子供にはきつく、それが原因だと思うので血液検査をした
後、点滴をするので夕方まで入院をしてほしいと言われた。

看護婦に病室に案内され、検査結果を待って点滴が始まった。

過ぎゆく時間を病状の落ち着いてきた息子を眺めながら安堵していると、病室の窓から見える西の空が茜色に変わり始めた頃、突然テレビカメラとマイクを持った男達をつれ、先程の医師と婦長が病室に入
ってきた。

状況を理解できずに佇む僕たち夫婦に、医師はテレビ局に努める知人に今日のことを話したら、是非夕方のニュースで生放送したいということになってねと・・・・

点滴を受けている最中の息子のベットを挟んで、僕たち夫婦に対峙して医師と婦長が座り、医師の通訳でトルコの印象や、この街の印象を聞かれという設定。

緊張と驚きで、何を聞かれ何を話したか、今はほとんど覚えていない。

僕たち自身は見ることはできなかったが、我々家族の映像が、サフランボル近郊の家庭の夕方のニュースで流されたと思うと、顔から火の出る思いである。

しかし、今も心に残ると事件はこの後に起きた。

点滴が長引き、退院の目途がついた時には、今夜もこの街に泊るしかない時間となっており、明日のイスタンブールからの帰国便に間に合いそうもない。

一旦、宿に帰り連泊のお願をした後、対策を考えようと思っていた時、この病院に連れてきてくれた彼が病室に入ってきた。

彼の顔を見るまで彼が居なくなったことにすら気付かなかった自分達に唖然としながらも、礼を言えることに安堵し、心配してきてくれた彼に、手短に現状を説明した。

すると、彼はこの街からイスタンブールまで約400キロ、自分は日本という国が大好きで、トヨタのいう会社で働いている。

今から出れば、「イズニック」の街には明日の朝には着くので、そこからバスでイスタンブールへ行くことが出来ると言う。

我々は、支払いを済ませ後、彼の車で宿に戻り荷物を積み込んで一路イスタンブールへ出発した。

この時期、トルコではラマダンと呼ばれるイスラム教の絶食期の最中で、日の出から日没までイスラムの人達は水も含め、一切のものを口にしてはいけない時期。

イスタンブールへ向かう途中、大きな街ごとに彼は行きつけのレストランに入り、我々を知人達に紹介しつつ、山のようにトルコ料理を我々にふるまってくれた。

「イズニック」の街には、朝の4時くらいに着いただろうか。

知り合いのホテルに連れて行かれ、ここはバスターミナルのまん前だから、少し睡眠をとってから行くと言いと言ってくれた。

ガソリン代はもちろんだが、御礼にいくばくかの謝礼を手渡そうとする僕に、彼は言った。

「帰国したら僕に手紙を書いてくれないか。謝礼なんか使ってしまえば無くなるが、君から届いた手紙はずっと僕の手もとに残るだろうと」

帰国後、すぐに日本の写真集と手紙を小包で送り、彼からの返事を心待ちにしていた時、ニュースが流れた。

トルコで大地震、「イズニック」は壊滅状態。。。。

その後、何度か彼へ手紙を書いたが、返事は無かった。ただ彼、ギムッシュの無時を祈り続けるのみである。

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